わたしは自分が強いことに慣れすすぎていて、弱い人々について理解しようとしなかった。幸運であることに慣れすぎていて、たまたま幸運じゃない人たちについて理解しようとしなかった。健康であることに慣れすぎていて、たまたま健康ではない人たちの痛みについて理解しようとしなかった。わたしは、いろんなことがうまくいかなくて困ったり、立ちすくんでいたりする人たちを見ると、それは本人の努力が足りないだけだと考えた。不平をよく口にする人たちを、基本的には怠けものだと考えた。当時のわたしの人生観は確固として実際的なものではあったけれど、温かい心の広がりを欠いていた。そしてそれについて注意してくれるような人は、まわりには一人もいなかった。
―スプートニクの恋人より―
結局は、気づく人は気づくし、気がつかない人はいつまで経っても気づかない
気づいても気づかない振りができる人もいるし、自分のことだと思う人もいる
昨今の学校問題や国内問題、領土問題をみていると
個々の心の動きを周りの人々が利用しているように思わざるを得ない
午前中、本を読む。窓を見ると風のない静かな雨が降っている
時折、音がないので雨が止んだのではないかと確かめるが
静かな雨は静かな雨としてアスファルトを濡らしている
TVモニターではNYY黒田が淡々とピッチングをしている
新聞やTVニュースに目をやると
うんざりするような人間の欲がむき出しになっている
この人たちは何をやって生活しているのだろうと思う
生活が厳しいならそんな暇はない
結局、時間と労力の無駄で生産性がない
そんなことを思いながら雨が止んだ午後に散歩をする
途中で雨が降ってきたので書店で雨をやり過ごす
そこで手にしたのが未来工業創業者山田昭男氏の著書だった
以前から「カンブリア宮殿」の出演で知ってはいたのだが
さしずめ平成の上杉鷹山だろう
この感覚が行政府にあるならば日本国民が生き生きしたものになる
オレは、日本の国債の累積や地方財政の悪化は
財政法(歳入歳出に関する法律)にあると10年以上前から思っていた
これは国家という大きな組織から小さな村まで同じシステムで行われている
いわゆる予算の使いきりだ
例えば末端の事例を言えば
予算が決定し現場に分配されてくる(ほとんどが前年に倣う)
必要なものを購入する計画を立てる
当然、定価で購入する訳ではないので複数から入札をする
100円の定価が入札予定価格を90円としても落札は88円かもしれない
予算を定価で立てれば12円余るし、90円で立てれば2円余る
この余ったお金を余った財源として戻せばいいのだけれど
結局は、ほとんど3月に必要のないものを購入して収支0とする
毎年、このことについてことある毎に意見をし
自分の職場が先駆けとなって実行すればいいのではないか?
と言っても黙殺されてきた
結局行政組織というのはそういうところなのだ
現場で問題が起きても責任を現場になすりつけるような
または上司や上部が責任逃れして一切責任は取らない
そのような社会に未来はない
そういう意味で今の日本の政権が変わろうとも何も変わらないが
その日本の中にも周辺諸国の暴論に
「なるほど」と言ってのける政党があるのには首をひねる
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